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マレーシアのマハティール、シンガポールのリー・クアン・ユーによって提唱されているアジア的価値論は、「当初、シンガポールにおける政治統合という国内政治上の必要から生まれた」のである。アマルティア・センも指摘しているように、「多文化社会における統合を脅かさず、しかも政府による統制だけに有利な条件を備えた、そんな都合のよい文化や遺制がアジアにあるはずもない」。国家統合の際に棚上げされたナショナリズムが、アジア的価値に摩り替わり、国民の統合のツールとして使用されているのではないだろうか。
マレーシアとシンガポールの民主化・ガバナンスに問題があるからこそ、アジア的価値を提唱しなければならなくなった点に注目する必要がある。そもそも文化が多様的多元的であるのは自明なことであり、そこに客観的な差異や共通性を見つけることは出来ず、仮にそれを行なうとすれば、何らかの政治的意図がそこに潜んでいると考えたほうが妥当である。それは、エドワード・サイードの主張したオリエンタリズムと同様の現象である。
都市中間層は権威主義体制の批判的勢力にはなるが、議会制民主主義を擁護する強固な政治基盤になる保証がなく、「開発主義が生み出したのは「生活者」ではなく「消費者」であった」ところに、東南アジアにおける市民社会の成立の難しさがある。市民になるよりも先に、消費者になってしまったところが、東南アジアの不幸なのかもしれない。そしてそれこそが、東南アジアの民主化の障害になる可能性が高いとも考えられる。
政治家が提唱するアジア的価値観のような国家の権力に立脚した公的ナショナリズムではなく、市民社会が市民として提唱できる価値が発生し得るかが、今後の東南アジアにおける課題ではないだろうか。
"東南アジアにおける政党政治と民主化・ガバナンスの課題 - 雑記帳 (via pdl2h)
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