My blog :"半可思惟".
民主主義原理とは一般に「治者と被治者の自同性」を指す。そして議会での公開の討論が客観的に正しい国家意思形成を導くという自由主義原理と民主主義原理の合わせ技が、ワイマール共和制下において採用された議会制民主主義である。
ケルゼンは、客観的に正しい政治的決定は認識し得ないとの前提に立ちつつ、多様な政治的見解の存立を許容しながら相互の妥協を図る仕組みとして、議会制を通じて代表された利益の妥協を多数決によって決することが最も害が少ないとした。
シュミットの批判について、ハバーマスのように「公開の討論の場」を広く捉えて反論するというアプローチも考えられる。すなわち、議会での審議は当該審議だけでなく、後に控える選挙結果も考慮に入れるべきであるし、選挙結果に影響しうる世間の討議状況も含まれるとする。
ケルゼンの立場を貫徹すれば、議会制民主主義を直接民主主義に近づけて個々人の有する諸価値を直接に代表させるようにすることがより望ましくなる。
前述のようなシュミットの批判に対して、同時代人のハンス・ケルゼンはシュミットのいう議会の機能不全こそが現代の議会制民主主義において必要な役割であると応じた。
しかし、後年スティーブン・ホームズが指摘するように、シュミットが目指したのは治者と被治者の情緒的な融合であったと言える。だがシュミットの疑問ないし批判には何らかの形で答えなければならないだろう。
カール・シュミットは議会が利益集団による国政支配の道具と化していることを問題視し、もはや自由主義原理には望みは無く、正統性の根拠を民主主義原理に一元化すべきと提唱した。
換言すれば、シュミットは秘密投票や議会制民主主義などという「中途半端な」自同性しか確保し得ない制度ではなく、大衆の喝采を通じた治者と被治者の自同性こそ目指すべきだと考えた。
そして民主的政治過程とは独立に政治的決定の正しさを判断するための基準をさらに二つに分けることもできる。民主的政治過程において提出される意見や主張のなかに「客観的に正しい答え」への手がかりがあるか否かという2つの立場である。
民主的政治過程と政治決定の正しさに関する立場を長谷部恭男が整理しているので参照すると、まず民主的政治過程とは独立に政治決定の正しさを判断するための基準が存在するか否かによって大きく二つに分類することができる。