町野先生は明らかにノリノリタイプであり、参観者の高見先生をあてようとしていた。しかも質問内容は民法における名誉毀損の扱いと刑法におけるそれとの異同及び変遷…。
町野先生はいつも小ネタを随所に挟むが、それが遺憾無く発揮されたお蔭で、高見先生のご出身が札幌だという知見を得られた。
"ところで、ぼくは古典を「読み替えて」いるので、「東の言ってることって通説と違うよね?」的な反論は意味がない、と言っておきます。これは開き直りではありません。突っ込むなら原典読んで反論しろと、というガチの話。"
Twitter / hiroki azuma (via ishibashi) (via otsune)
東がやろうとしてるのは思想の構築ではなくて彼にとっての市場の構築だと自分は理解しているので、その観点から考えるとこの主張は理に適ってる。
(via pdl2h)
自説を提唱する以上、過去のものとは異なる解釈になるのは当然なはずで(そうでなければ自説を展開する意義はない)、それが「反論」にならないということは同意できる。しかし、「反論」をされてしまうのは、twitter上ということもあり、通説的見解を踏まえている(かもしれない)ことが明示されていないからであろう。または、「読み替え」なのにもかかわらず、あたかも古典のテクストに主張が書いてあるかのような誤信を招いているように見えるからだろう(Twitter上で引用部分と自己の主張を明瞭に区別することはなかなか難しいこともある)。
しかし、こうした指摘を「反論」と受け取ってしまうのは何故だろう。今日の通説もまた提唱者が原典を読んで導出した一定の解釈ないし見解であり、それに依拠したつっこみは、つっこみたりえる。逆にいえば、通説的見解と相違点があるとの指摘に対して、どうして違う見解をとるのか、どういう根拠からそう解釈しうるのかを示せなければ、それは単なる妄言か詩である(妄言は妄言なりの意味があることは否定しない)。
(あと、研究者ならずとも、少なくともまっとうな論考や論文を書くなら原典にあたるのは初歩の初歩だと思うんだけど、一体誰と戦っているの……風車?)
それともここを強く解釈すれば、これまでの学説による蓄積は参照しない、という宣言かしら。仮にそのような態度をとるとしたら、端的にいえば学問の否定であり、宗教家になるということだと思う。それが「市場の構築」なのかな。
Rebloged from : pdl2h
hexe:
「集団知」と「衆愚」の関係は「発酵」と「腐敗」の関係と同じ。同じ現象を指して人の役に立つものであれば「発酵」と呼び、役に立たない(もしくは害をなす)ものであれば腐敗と呼ぶのであるが、「集団知」と「衆愚」も同じで、ある現象がもたらす結果を見て「○○は集団知だ」あるいは「○○は衆愚だ」と言っているに過ぎない。つまり結果からさかのぼっているのであって、言い換えるなら「集団知を前提にした○○」なんてなものは論理的にありえないということだ。もしあるとすれば、それは「集団知」でも「衆愚」でもなく、ある恣意によって導き出された結果である。
Rebloged from : hexe